2026.5~6「与えられたもの」[実験日記]
5/11
・そうか、あのラフスケッチのような雲。「無限の距離」とダグラスが書いてたのは、親しい、ということを言いたいのか(『頭がないということ』p.117)。
5/14
・二元的な表現のほうが、非二元のことをうまく言える、っておもう。
5/16
・歩いても歩いても、キリなく風景が現れる。そのキリのなさというのは、世界の側にあるのではなく、わたしの側にあるのでは?
・指差し実験で、どう感じるか(feel)について、ダグラスがこう書いていた。
「地下鉄で、トンネルを抜けて地上に出たときのよう」
(Head Off Stress p.294、拙訳)
言われてみれば、たしかにそんな感じがする。
・世界はわたしの肌。
5/23
・内視鏡検査で見る、自分の十二指腸。
IFS(内的家族システムという心理療法)で出会う、自分のなかのパーツたち。
あっちの自分というのは、ひとつのカタマリじゃないね。
多であり、複雑。
「向こう側は、複雑ではないでしょうか?」とダグラスが問いかけたくなる感じ、はじめて実感できた気がする。
街を歩くのも、宇宙の腸のなかを歩いてるようなものか。
5/25
・存在そのこと――誰かが存在しているという、そのこと――を嫌うことって、できないのではないだろうか。
5/28
・久しぶりに小説を読む。登場人物にも、風景描写にも、作者の体温を感じる。
この現実の世界だっておなじだ。出会う人にも、見える風景にも、やっぱり神さまの息遣いを感じる。
5/31
・垂直線の実験もおもしろいけど、奥行き方向の線もおもしろい。目線の高さにある奥行き方向の線だけが唯一、水平で、それ以外は傾いてる。
ほんとに、なんという世界か。
・起こったことに対する信頼とは、創造されたものに対する信頼、神に対する信頼。それはすなわち、自分自身に対する信頼だ。
起こったことを信頼できずして、どうして自分を信頼できる? あなたの創造した世界であってみれば。
6/2
・距離があるから、二人称が成り立つんだよね。
6/3
・孤独。
わたしはどうしたって、わたしのこの位置をとおしてしか世界をみることができない。
位置が違うから、ほかの人が歩むそれぞれのみちを、わたしは残念ながら理解することができない。
・安全な人生を歩もうとはおもわない。絶えず流れゆく砂絵のどこに「安全」なんてありうるの?
6/7
・ダグラスの言う、成長の4段階。ああいうふうに整理できたのは、ダグラスが家族といろいろあったことも関係してるのかなとおもう。
6/13
・ダグラスの言うgiven(与えられた)。スピリチュアリティって、ぼくにとっては、その一語に尽きるかも。
与えられたものを尊重すること。もっと実践的にいえば、自分に嘘をつかないこと。
むしゃくしゃしてるなら、むしゃくしゃしてる、というのが、その時の「与えられたもの」。それを尊重すること。
指差し実験もいいけれど、ほんとの実験って、そういうことだとおもう。
6/16
・コーヒーやお酒で気分が変わるのって、おもしろい。目に見える「物質」によって、目に見えない「マインド」が影響されるなんてね。
神経って、物質でもあるけど、マインドとも密接に関わっている。
6/23
・こうして目の前に見える空間。向こう側に感じる奥行きというのは、実のところ、こちら側の広がりを見ているのではないか。
「三次元であるのは私の世界ではなく、それを『見ている者』だ」(『頭がないということ』p.116)。
『存在し、存在しない、それが答えだ』の表紙も、そういう奥行きを表現しているとも解釈できそう。
6/29
・ダグラスの実験の一節。
「香りをかいでいるその者自身をかいでごらん。意識ある無香性として
(Smell the smeller as conscious odourlessness.)」
(Workshop Guidelines(※〕、img127、拙訳)
香りをかいでいるわたし自身をかぐことなどできない。そう、鼻ではできない。いわば「意識の鼻」でかいでごらん、ということだとおもう。
指差し実験も同じ。見ている者自身を見ることなど、肉眼ではできない。あくまで意識の目で、こちら側を見ている。
※リチャード・ラングさんに教えていただいた資料。
(2026.7/4)
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