奥行き
自動車を運転するとき、前を走る車両との車間距離を見誤りやすい。自動車学校でそう教わったとき、定規の実験のことを思い出した。前の車両と自分の距離を測ろうとするのは、定規の実験で対象物と自分の距離を測ろうとするのと、同じことをしている。距離を測ろうとしても、距離は見えない。見えないから推測するほかなく、車間距離を見誤りやすい。
仕事の関係で認知症の本を手に取ったときも、定規の実験っぽいことが書いてあった。認知症の方は、「直進」を示す道路標識(上向きの矢印)が、前方を意味するというふうには見えず、文字どおり上方向、「2階や空」を表すように見えてしまうことがあるそうだ。その理由について、こう説明されていた。
《認知症のある方の多くが空間の奥行きを認識する機能にトラブルを抱えるためです。つまり、見えている景色がまるで絵葉書を見ているように、平面(二次元)に見えてしまっているのです。絵葉書の中で「上」と言えば、それは奥のものではなく、上空のものを指しますよね。》(筧裕介、issue+design『認知症世界の歩き方 実践編』56頁)
ダグラスの本には、これとちょうど逆の事例ーー垂直に立っているように見えた路面が、通常どおり水平に延びているように見えるようになった、という事例が紹介されていた。
《私の最後の証人はJudy Taylor、As I See it〔『私の見るところ』〕の著者である。彼女は子どもの頃に視力を失った。40年ぶりに視力を取り戻した彼女は、こう尋ねた。
「あの白いのはなに? 宙にまっすぐ突き出てるアレ。向かいの家の隣。」
それは路面だった。やがて路面もちゃんと寝てくれるようになった。》(The Trial of the Man Who Said He was God, pp.263-4, 拙訳)
この種の事例について、脳科学的にはこんな説明になるだろうか。世界は、もともとは3次元(立体)だけれども、視覚で見るときは、網膜を介して世界を見る。ところが、網膜というのは2次元(平面)だから、もともとあった奥行きが消えてしまう。その消えてしまった奥行きを、脳がうまく再構成できるかどうかだ。
《私たちが住むこの世界は空間的に三次元である。たて、横、奥行きがある。〔…。しかし、〕脳にとってみれば、いつだって、網膜投影像という二次元(2D)情報に基づいて立体的な知覚世界を構築しなくてはならない。》(藤田一郎『脳がつくる3D世界』1-3頁、〔 〕内は引用者)
ここで、脳や網膜、という説明が出てくる。科学の説明としては、もちろんそれでよいのだけれど、自分の脳や網膜を自分で直接に見ることはできない。自分に直接見える限りで言えば、脳や網膜は、あくまで検査機器に映る映像である。
では、記憶を使わず、視覚で見える直接の経験(現在の証拠)だけから言えば、世界はもともと三次元である、と言えるのだろうか。
いま試しに、部屋の隅に目をやれば、天井と二つの壁が交わって、たしかに立体的に見える。しかし、交わる三本の線も、立体感を醸し出す陰影も、どれも色の違いにすぎない。交わる三本の線は黒っぽく、天井と壁は白い。影は黒から白へのゆるやかな濃淡である。
部屋の隅に限らず、向こう側に見える世界は、どこに目をやっても、色ばかり。
色そのものに「手前」も「向こう」もないから、色は二次元だ。そして、視覚で見える世界は色にほかならないのだから、視覚世界は、いかに立体的に見えても、実際には平面ではないだろうか。
《直接の視覚的経験に従ったとき、奥行きが見えているかどうかを確認する。実際に三次元を見ているのだろうか。色は二次元だ。〔…〕奥行きや距離は推測であって、直接の視覚的経験ではない。》(グレッグ・グッド『ダイレクト パス』74頁)
定規の実験を参照しながら、ダグラスも同じ理解を示している。
《〔…〕謙虚に、そのあるがままに受け取るとき、なるほど、宇宙はたしかに平らなのだと知る。その高さと幅は所与のものであるのに対し、奥行きと距離は構成されたものであることを私は見る。》(Head Off Stress, p.288, 拙訳)
視覚で見える世界は平面のはずなのに、それでも奥行きを感じるのはどういうわけだろう。脳や網膜といった説明を使わずに答えれば、こう説明できるのではないかとおもう。
指差し実験のこちら側、色も方向性もない奥行きがもともとある。その方向性のない奥行きが色づくとき、方向性を感じさせる意匠をまとう。
たとえば、電車の車窓から街を眺めれば、近くにある電柱はすばやく過ぎ去り、遠くの山並みはほとんど動かず、その中間あたりの家並みはゆるやかに流れる(『今ここに、死と不死を見る』67頁)。
あるいは、向こうまで続く道路の消失点が目の高さにあるように、ビル街の垂直線を下に延ばしていくと、どの垂直線も胸のあたりに集まる(『存在し、存在しない、それが答えだ』136-137頁、230-231頁)。
こういった意匠によって、あちら側に収斂していくような奥行きが立ち上がる。
しかし、あちら側に奥行きを感じるとき、それは実のところ、色が描かれる前からあった無方向の奥行きを感じているのではないだろうか。「あちら側に」という方向性は、色のなせるわざだけれども、奥行きそのものは、色が生まれる前からある。
たとえば、並木道で遠くの樹を見ていると、ずっと向こうまで延びる奥行きを感じる。目を閉じても、方向性こそ抜け落ちるものの、奥行きの質感は残る。目を閉じる実験の、あの最後の感じ。
目を開け、奥行きそのものに近づこうと樹に向かって歩いてみれば、近づくほどに、奥行きの方向性、向こうへと延びる鋭さがほどけてゆく。それでも奥行きそのものの質感は変わらない。その質感から意識を離さないように、樹にぴったりくっつくまで近づいてみる。すると、樹がぼやけて見えなくなっても、やはり奥行きの質感は残る。
後ろに一歩下がって距離をとれば、ぼやけた樹も鮮やかに復活する。
見えない奥行きが先にあるから、樹が見えるのだ。
再び並木道に目を転じれば、あらたな奥行き、あらたな風景が生まれている。
《奥ゆきは現に感得されている。けれどそれを見ようとしてその奥にまわっても、奥ゆきとして感得されていたはずのものは表面と化し、その表面化とともにまた新たな奥ゆきがうまれ、けっきょく見えてくるのはいつまでも表面ばかりだという無限退行のパラドックスだけが、見る主体にはゆるされる。》(古東哲明『〈在る〉ことの不思議』26頁)
奥行きを対象としてとらえようとすれば見失う。けれど、奥行きがないというわけではなく、むしろ見えない奥行きがあるから、こうして見える世界がある。
並木道を抜けて街を歩けば、とめどなく風景が生まれ来る。とめどないのは、見える世界が果てしないからではない。見えない奥行きが尽きないからだ。
見える世界は生き生きと、見えない奥行きの質感を伝える。
カード実験で、カードが向こうにあるときの穴は対象物、カードをこちらにくっつけたときの「縁のない穴」は主体、その二つは連続的だけど異質だと、いちおうはそう説明できる。
でも、並木道に立ち、道が地平線へと消えかかるあたり――ちょうど指差し実験の最後に指差す高さ――をじっと見ていると、向こうを見ていたつもりがいつの間にか反転して、こちら側にすっと引き戻される。あちらの方向性のある奥行きと、こちらの方向性のない奥行きがとけあう。
《〔…〕三次元であるのは私の世界ではなく、それを「見ている者」だ〔…〕。〔…〕星のきらめく空はもはや一億分の一センチも私と離れていないにもかかわらず、それはますます他者となり、神々しいまでにますます天上的になる〔…〕。》(『頭がないということ』116-117頁)
この奥行き、この距離のない距離。
そのおかげで、わたしとは違う、あなたがいる。
(2026.8/22執筆
髙木悠鼓さんのメルマガ「神の実験室通信143号」に寄稿)
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