2026.7~8「絶大なもの」[実験日記]
7/10
・歩いてると自分の影ができるのって、おもしろいね。
7/11
・鏡のなかの自分というのは、本来的に不安定なものだとおもう。
7/14
・ルパート・スパイラさんが、knowing(知)の手で触れるって言ってたの、わかった感じ。
knowingの手で建物のタイルに触れると、タイルも、手も、つかみどころがない。触れるほうも、触れられるほうも、つかみどころのない同じ素材でできている。
7/27
・「非二元」という言葉で思い浮かべるものって、人によってずいぶん違うようだ。
ぼくにとっては、生活のなかで実感できる哲学、という感じ。
もし実験と出会っていなければ、哲学者の古東哲明さんやベルナルド・カストラップさんが書いているようなこと、ピンと来なかったとおもう。
7/31
・襟つきのシャツっておもしろい。襟って自分には見えず、ほかの人にだけ見える。襟つきのほうが、襟なしよりフォーマルだとされるのも、そういうニュアンスが無意識にあるのかも。
非二元の実験って、こんなふうに日常のそこここに顔を出す。
8/2
・ダグラスが書いてることを理解するのに、年単位で時間がかかる。そこまでつきあう読者は少数のはずで、その少数に向けて足取りを残してくれたんだなぁと、読んでいてそう感じる箇所がある。
8/5
・電車で、手すりを押してみる。
目をあけて押すと、向こうに行けない、という感じがする。
目を閉じて押すと、冷たい感触、押しているという力感があるけど、向こうに行けない、という感じはない。
8/6
・非二元って、二元の肯定だ。
8/9
・ケン・ウィルバーのFinding Radical Wholenessの最終章は、「インテグラルな性的タントラの実践」。指差し実験とセックス、という意外な組み合わせ。
ルパート・スパイラさんが、触覚の実験をセックスと関連づけていたのは(Transparent Body, Luminous Mind, pp.47-49)、理解しやすいけど。
指差し実験は、「どう感じるか」より、「ただ見る」ってやるのがふつうだとおもうけど、ウィルバーは、指差し実験の「感じ」を活用している。
8/14
・非二元の実験で、どうして直接の体験から出発するのか。うまく説明できなかったけど、体験こそ、所与のものだから、あとからつくりあげたものではないから、ということか。
8/16
・非二元でラクになるなんて、ぼくはそんなふうにまっすぐには言えないな。
(肉体をもって)生きるというのは、とてもとても大変なことだとおもう。
8/20
・二人称・三人称と一人称の違いって、死ぬときに、いちばん際立つのかも。
誰かの死を目撃するのは二人称・三人称。
(肉体としての)自分が死ぬのを目撃するのは一人称。
死ぬときは一人だ、ということの意味。
8/21
・指差し実験でこちらを指差すのって、あちらへ向かう方向性を消そうとしている。
8/22
・奥行きについてのエッセイ。書きたくて書けずにいたことを、やっと書けた。
いろいろ書いたけど、結局、おもしろいよねとか、不思議だねとか、ただそう言いたいだけだとおもう。
8/25
・よりどころのないものに、よりかかる。
8/27
・定規の実験を初めてやったときは、「???」という感じだったけど、いまはもう、もっともなことを言っているようにおもえる。
初めて実験をしたときの戸惑いを、だんだん忘れつつある。
8/31
・「あのとき~」と後悔することもあるけど、実際に起こったことというのは、そんな想像上の設定とは同列にできない、なにかもう、絶大なものだという感じがする。
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