2025.9「ふつう」[実験日記]

9/5

・目をとじれば、なんにもないものになる。雨音と、波のようなからだのさざめき。

・ケン・ウィルバーのFinding Radical Wholeness(未邦訳)、おもしろいな。

 こんな人が中学校の先生だったらよかったのに。ないものねだりね。

 指差し実験のガイドの仕方がおもしろい。定規の実験と同じになるのね。


9/6

・ゆたかさってなんだろう。

 この世界があるってこと。

 存在そのこと。

 意味が通じるということ。

 見えるということ。

 自分とはぜんぜん違う思考や感情をもつ人がいるということ。


9/7

・鏡を見ると、鏡に映るあのひとについての思考や感情がわく。鏡をおろすと、そういう思考や感情がどっかにいく。

 ふだん、思考や感情が浮かぶときも、向こうに鏡(に相当するもの)をみているのかも。


9/8

・病院で人と話す。話している相手がどこにいるのかというと、ここ、両手を顔に近づけると見えなくなるここ、鼻よりもずっと近いここだ。

・「わたし」という感じって、増えたり減ったりしない。今日は調子がいいから「昨日よりもっと『わたし』だ」とか、今日は調子がわるいから「いつもより『わたし』でない」とか、そういうことってない。

・存在の音のような、かなしみ。


9/14

・触覚の実験。なにもないものが、冷たさや、かたさや、やわらかさに変わる。


9/15

・演奏会。スター・ウォーズの曲。音が山になり草原になり宇宙になり兵器になる。


9/19

・朝の駅カフェ。視界の縁を探す。ない。あえて言えば、透明なひかりが縁だ。

・実験(※)。「わたしは自分の手をあげる」とおもって手をあげると、わたしがあげている、ようにおもえる。

 「わたしの手があがる」とおもって手をあげると、今度はそんな感じがしない。

 

※國分功一郎『中動態の世界』に出てきたウィトゲンシュタインの言葉に触発されました↓

《「私が自分の手をあげる」とき、私の手があがる。ここに一つの問題が現れる。私が自分の手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、そこに残るのはいったい何か?》(pp.36-37)


9/26

・人はどうして特定の教えにハマりがちなのだろう。

 どんな優れた教えより、あなたのほうがずっと素敵なのに。


9/27

・この頃、なんかふつうに生きてるって感じ。

 生から意味だとか価値だとかを引き出そうとしたり、生に意味づけや価値づけをしようとしたり。そんなことをしないで暮らしてゆけるこの感じ、子どもの頃はそれが「ふつう」だったんだとおもう。

 ふつうっていいな。


(2025.9/28)

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