かなしみ
中学二年の頃、
「かなしみを知りたい」
とおもった。
それまでいちども、そんなこと、おもったことなかったのに、
学校のかえりみちに突然、そんな想いに打たれて。
自分はほんとうにかなしんだことがない、
それはまるで生きていないのと同じではないか。
なにか決定的に大事なことを取り逃がしているようにおもえた。
それがまぁ、スピリチュアリティといえばいいのか、
その種のことに興味をもった最初の日となった。
あの頃、通学バスからみえる通行人たちがうらやましかった。
こういうことを考えずにふつうに過ごしているようにみえて。
どうして自分だけがこういう問いに取り憑かれているのだろうとおもっていた。
あれから年月がすぎ、気づいてみれば、ふつうに暮らしている。
あの頃うらやんでいた通行人の一人に、いつの間にか自分がなっている。
そのことが可笑しい。
そうね、と十代の自分に話しかけてみる。
感情的なもろもろが癒やされてきたときに感じられてくる、かなしみ、ってあるとおもう。
それは感情ではない。
癒やされるべきなにかでもない。
生きているという実感の、感じ方のひとつなのではないかしら。
生きているという実感を感じているとき、生きていることの意味や価値を考えたりしない。
生そのこと、存在そのことは、理由(わけ)なくある。
深い意味や高い価値があるから尊いのではなく、
意味づけや価値づけを必要としない尊さ、というものもあるのね。
こういうことに気づくようになったのは、十代のあなたが生きてくれたから。
生きたという、ただそれだけのことが、どんなにおおきなことだったか。
いまになって、それをおもうの。
(2025.10/5執筆
髙木悠鼓さんのメルマガ「神の実験室通信138号」に寄稿)
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