お話会の思い出
先日、久しぶりに中野真作さんのお話会に参加した。
まさか友達と一緒に参加する日が来るとはおもわなかったけれど。
浮かぶままに話してみてもいいし、話さなくてもいい。
時折おとずれる沈黙も、無理に埋めようとしなくていい。
中野さんのそんな説明を初めて伺った四年半前、少し戸惑った記憶がある。
いつだってそこにある沈黙から、ぽつりぽつり、言葉が湧いては消えてゆく。
そっと目をとじれば、初めて出会う方の声が自分の声として聞こえてくる。
自分がふだんおもっていることを、他の口が語り、
話し手と聞き手の境界線がゆらぎ始める。
神田駅をとおる電車の響きも、なぜか懐かしく。
気づいてみれば、お話会で知った感じが、いつの間にか日常に溶け込んでいる。
電車で隣になった人の、やわらかな存在感。
道ゆく人の暮らしのにおい。
友達の話し声が言葉になるまえの、ちいさなゆらめき。
何より、その人がその人でいてくれることのうれしさ。
伝えられたということにさえ気づかない、そういう伝え方もあるのだと、沈黙のやさしさにいまさら気づく。
お話会の参加者のお一人から促され、お話会を主催してみたこともあった。
先日は、少人数の前で、ほぼ初めましての方とお話しする場に招かれたのだから、自分もずいぶん変わったものだとおもう。
そこで自然と起こった沈黙がまたよかった、というご感想をいただいたとき、中野さんのお話会のことを思い出した。
季節が一巡りしたようだった。
最近、ものすごくさみしくなる。
いちばん深いところをわかちあえる誰かを求める気持ちだったり。
読みかけの本をそっと閉じるような、別れの予感だったり。
そういう出会いや別れも、自分のことを自分より知っている、ずっと見守ってくれている誰か――「あなた」と呼びたくなる誰かの、さまざまな表情のようにおもえる。
その愛おしさ。
さみしさも愛おしさも、人が人であること、わかれて生きることからくる、ある種の調べのようなものだとおもう。
人が人としてもちうる調べを、その振幅の限りに響かせてみたい。
そのために、できうる限り自分をひらいておきたい。
癒しということも、話すということも、わたしにとってはそういうことなのかなと、そんな気がしている。
(2026.5/15
会場で配られたアンケート用紙にお応えして)
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