2025.6「時計」[実験日記]

6/4

・時計の実験。測れるものは、こっち側には侵入できない。

・「わたし」という感覚は、老いない。


6/9

・「今が何時か」というのは、時計だけを見ててもわからない。ということに、永井均の本(※)を読んでて気づいた。

 時計を見るまえに、今が「今だ」と、なぜかわかる。わかったあとで、「今」に対応する時刻は何時だろうとおもって、時計を見るわけだ。


※《時計そのものをどんなに詳しく観察しても、文字盤からも針からも、今がいつであるかは知らされない。今がいつであるかは、時計の外に現に今がすでにあって、そこから時計を見たときにだけ(この一方向においてのみ)知らされるのであって、時計それ自体には、そのようなものは影も形もない》

(永井均『世界の独在論的存在構造』p.139)


6/23

・鏡で顔を見る。つかれてさみしそうな目。

 そうなのだ、顔は向こう側にあるのだ。

・シャワーを浴びていると、窓からのひかりと、お湯と、呼吸と、全部がまじりあう。言葉を失う。

・目をつむって横になってると、からだも世界も、海の海流のよう。不定形で、うねり、あそこにぶつかり、ここにぶつかり、絶えず地形を変えながら。


6/24

・事務所の外に出たら、いつのまにか暗くなってる。あぁもう夜か、とおもう。

 「今が時間頃か」というのは、そんなふうに対象物から判断しなければわからない。

 でも、今が「今だ」というのは、対象物を何も参照しなくてもわかる。そういう「対象的ではない知り方」ってあるとおもう。とても日常的なこと。


6/26

・朝の電車のなか。ここには人間物体はいないんだなあ、とあらためて。


6/27

・David LangのA Flower in the Desert、好き。ジェニファー・マシューズ『ただそのままでいるための超簡約指南』とどこか似てる。


6/28

・エレベーターのなかで垂直線の実験。視界の両端ギリギリの垂直線も、やっぱり胸のあたりに集まるんだな、というのがエレベーター内だとわかりやすい。


6/29

・寝そべって天井を見上げる。視覚で見る世界には底がない。まったくの根無し草だ。

 世界って、もっとこう、かたく頑丈な基盤のうえに立っているというイメージを、自分はどこかでもっていたらしい。「砂上の楼閣」という言い回しも、そういう前提に立った表現だね。


(2025.7/5)

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