再会
「。。。」
初めて指差し実験をやってみた感想は、そんなふうだった。
「主体を見ることって、できないんじゃないの?
だって、見えている時点で、それはすでに対象物じゃないか」
決定的な疑問だ、と当時はおもっていた。
それから年月が過ぎ、うなされて夜中に目がさめたときのこと。
あっ、と息をのんだ。
「なんと豊穣な『なにもなさ』であることか」
日記には、そう書きつけてある。
どうして急にこうなったのか、自分でもわからない。
いつもどおりの寝室が見えただけなのだけど。
ともかく、この夜以来、ダグラス・ハーディングに最大限の敬意を覚えるようになった。
ロンドンから帰国して禅と出会い、
ダグラスさんを通してまたイギリスと出会えた気がして、うれしかった。
実験に魅せられる日々がしばらく続いた。
実験には不思議なユーモアがある。
ひとり紙袋の実験をやって、紙袋と部屋の大きさが同じだと気づいたとき。
天井を見上げて、自分が天井「の下」にいるのではないと気づいたとき。
おもわず、くすっと笑ってしまう。
ちょっとした謎解きの楽しみもある。
定規の実験はこんなふうだった。
図書館にでかけた帰りみち。
目を閉じて、右の樹の小鳥の鳴き声と、左の樹の小鳥の鳴き声に耳をすませていると、
ふたつの鳴き声のあいだには距離がない。
でも、目をあければ、二羽のあいだには距離がある。
「どういうことだろうか。距離はあるのか、ないのか?」
それから何週間か経って、ふと思いつく。
頭を両手で挟んで目をつむれば、両手のあいだに距離はない。
けれど両手を顔の前まで平行移動させて、目をあけてみれば、両手のあいだには距離がある。
あっ、これ、小鳥の問題と同じだ。
高木さんにお話ししてみたら、
「測ることができるところにしか、距離は存在しないんですよ」
と、定規の実験で伺ったのと同じ説明が返ってきた。
「あぁ、両手を顔の前まで移動させたら、両手が定規のかわりになるわけですね。
だから距離がある。
目をつむってしまえば、測る基準がないから、距離がない」
高木さんがニコッと笑う。
「そう。ね、簡単でしょ?」
中学2年からこういうことに興味をもち、もうすぐ四十路。
この頃、ふとさみしくなる。
インクの出ないペンで書き続けていたような気もして。
ヘラクレイトスの断片集に、次の言葉をみつけた。
「〔太陽の大きさは〕人間の足の幅」
定規の実験と同じようなことを考えていたのだろうか。
人通りの少ない道で、たまに人影と出会うと、うれしくなる。
これからどうしよう。
もう少しこの道を歩いてみようか。
わたしと同じような十代の話し相手ぐらいにはなれるかも。
それでいいのかもしれないわ。
(2024.7/13執筆
髙木悠鼓さんのメルマガ「神の実験室通信130号」に寄稿)
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