2025.4~5「かつ消えかつ結びて」[実験日記]
4/4
・直接体験としては、ほんとうは「五感」っていうふうに分けることはできない。分けることはできないけど、視覚は視覚として、聴覚は聴覚として、ちゃんとわかれて機能している。そこがいいなあとおもう。
4/6
・音が消えると、何の痕跡も残さない。それは、音が、音のないものからできているという証拠では?
4/10
・目をつむって歩いてみる。この密度の濃いなにかを「からだ」と呼び、密度の薄いほう(空間のようなところ)を「世界」だとおもって、ふだん過ごしているわけだ。
でも両者の境目はつねに流動的だ。
・その人から好かれるか嫌われるかとは関係なく、その人が存在してることがいいなあ、という感じ。
4/12
・床をさわるとかたい。しかし、かたさの感覚自体にかたさはない。
腕を上げ続けてると重い。けど、重さの感覚自体に重さはない。
4/13
・本を閉じるのと、まぶたを閉じるのは似ている。
4/17
・風景が軽くみえる。重さがないというか。クレパスで描いたみたいな。
4/18
・見ようとせずとも見え、聞こえとせずとも聞こえる。そういう、対象的ではない知り方ってあるとおもう。
4/21
・記憶を介さなければ、ゆうべ、夕食を食べたことさえわからない。自分が生まれたことも。
4/25
・車窓の外を眺めて。視界には、どこから見てるかという「位置的な中心」はある。でも、見てる意識そのものには、位置的な属性はない感じ。
5/7
・記憶を参照せず、直接経験から辿っていくと、「意識」が残る。でも考えてみれば、そりゃそうだ。「経験」とは「意識」なのだから。
5/10
・ここにたしかに頭がないということに、あらためてハッとする。
頭の重さを感じると、頭があるとおもう。でも、重さの感覚自体には重さはない。
頬の感触を感じると、ここに顔があるとおもう。でも、感触自体は宙に浮かんでいる。
それにしても、ここがまったくすっからかんだということに、どこか慣れないところがある。どうしてもなにかを描きがちだ。
・視覚から見れば、頭や顔があるとされているところに、世界の全体がある。
5/14
・ダグラスの太陽の図(『頭がない男』p.133)。ひとつの意識、複数の世界。
あれ、同じもの(主体)がそれぞれの人を通して世界をみてる、ておもってたけど、意識って位置はないから、「を通して」なんてふうじゃないとおもう。
じゃあどんなふうかといわれたら、思考では把握できないとしか。。。
5/14
・「意識」と「存在」って、同じことの別面よね。右を見たときにだけ、右の風景があるのだから。
5/15
・「わたし」という感じは明晰にある。「わたしがいない」とか「すべてがそれ」とか、そんなふうに言いたくなる感じはしない。
・味って、口のなかでおこってるようにはおもえない。物理的なものではない感じ。
・頭があるはずのとこに脚がおさまってる。
5/17
・意識とは別個独立の「物質」などというものはない。それは間違いのないことだとおもう。
5/19
・ぼくはやっぱり実験が好きだな。概念ではなく、直接体験のほうを指し示してくれる人と出会えたら、とても幸運だとおもう。
5/21
・記憶を参照せず、直接体験として感じるからだ。息が喉を通るときの熱感、目の奥の圧、指先のジリジリ・ピリピリ、あちこちの気のうごめき。
そういうの、「指のあたり」とか「目の奥」とか、やっぱりある一定のかたちをもっているようにおもえる。けど、よくよくみると、感覚そのものは、「かつ消えかつ結びて」(方丈記)をくりかえしている。
からだって、消えながら現れているものなんだ。鍋の蒸気や雲のうつろいがそうであるように。
5/23
・手でやるカード実験。両手を前に伸ばせば、部屋のなかに両手がある。こちらに戻せば、「(見えない)両手」のあいだに部屋がある。
こんな他愛もないことがおもしろい。グリコのオマケについてきたおもちゃのよう。
5/24
・自分は一個の人間物体だ、と多数が信じているうちは決して実現できない制度ってあるとおもう。
5/25
・人間ドック。胃カメラで自分の食道や胃や十二指腸をみてると、おもしろい。
からだは、見る位置によって姿形を変える。
5/31
・自分のこころなり意識なりが世界に反映される、なんていうことはないとおもう。「反映される」なんて、そんなふうにわかれちゃいない。
(2025.6/2)
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